2010年12月8日水曜日

ミリ秒単位の音楽

昨日ふと思っていたことを書く。

音楽はいわゆる空気振動だから、物理学の法則に従って
媒体中の「音速」に左右される。 つまりだいたい
秒速300mくらいという時間的制約をうける。

30メートルくらい離れると、0.1秒遅れである。
15メートル離れて音を聞いてから同時に出すとなれば
最初に発音したヒトの時間系からは当然0.1秒
遅れることになる。  指揮者の棒と音楽のズレを
認識しないとトランペット奏者は勤まらないだろう。

音楽的にずれが発生する距離を考える。

一秒間に ”だるまさんがころんだ”を早口で言うことが
可能ならば、技量的な問題は抜きにしても器楽音楽的にも
その表現が可能であろう。つまり ♪=120なら32分音符の
刻み位のズレが30メートル離れると聞き取られる。
16分音符ならその倍60メートルくらいである。

 つまり演奏会場が大きければ残響もそうだが直接の音も
ずれ始める。 実に興味深い現象。 大編成の対向配置オーケス
トラは1st/2ndバイオリンが同じ音でトレモロ刻むだけで
エコーがかかる。

 バンダを会場の遠くに設置すると、大抵遅れてしまう。
彼らにはヘッドホンを与えないと駄目なのだ。

 世界同時中継で演奏会をやるなんて話は結構あるが、
この技術的問題をクリアしてるのだろうか。

 個人的には仮想的演奏会場を、ネットワークの技術で
実現できる時代が近いと感じるけれど、ミリ秒単位で
同期できるかが鍵である。人間の耳はおそらく1ミリ秒の
ズレを感知できるはず(僕は左耳が悪いから無理)で、
それで位相差をキャッチしているのだから、ミリ秒ズレると
エコーと位相差で、敏感な人は気持ち悪くなるだろう。

5m秒くらいですでに1.5mくらいの距離がある。誤差ではなく
音楽的な時間設計があれば、5m秒のズレは自然な演奏家同士の
距離として認識可能はず。

なんてことを。

脳内音楽

演奏会のアンケートや、感想の中に「場内に…」という苦情が多いが
特に多いのは「子どもが五月蝿かった」「・・・が気になった」とかいう
話が多い。

もちろん演奏するのも生身の人間である。しくじることはプロでは
あまりないが、アマチュアはしょっちゅうだ。安っぽいホールでは椅子も
碌々管理されていないので、ぎちぎちという音がする。無料コンサート
では客を選ぶことができないので、酔漢が暴れるなどの話があった。

最近聞くのは、補聴器がハウリングを起こすという話。コンサートホールは
残響が大きいし補聴器からの音漏れをよく拾ってしまう。聴く側もピア
ニッシモを捉えたいと必死にゲインをあげるが逆効果になってしまう。

こういう例外的な問題は、すべて「ノイズ」という点に帰結する。

ノイズや、認知科学の専門家ではないので、細かい技術的な話は抜きにして
「人間の中で音楽を感じ取れるのは大脳」だということから、脳が音楽と
いうものをどう捉えるかに関わることについて、日々思いを巡らせている。

鑑賞する側はもちろん、演奏する側の脳内音楽というものがあって、
実際に耳に捉えられる刺激が音楽として理解されるかという点において
このノイズはあまり関係がない気がするのである。

 音楽を楽しんでいるのが大脳である以上は、その脳の中でフィルタされ
さえすれば、かなりのノイズをガマンできる。 いや、脳が記憶した音楽を
奏で続ければ、「空気を震わせる」音楽など要らないのだとも。

 演奏会では会場からもたらされる残響、低音振動などの要素があるが、
これらがむしろときおり不快なものにすらなっていることがある。ノイズ
としてではなく、音楽として自分の中に定義できてないモノもあれば、非
音楽的要素すらある。

 録音物、音楽媒体に加工して保存された演奏記録は、これらの非音楽要素が
クリアされているため、実際の音楽会場では、もっと多くの喧騒と非音楽的な
反響に満ちていることを忘れてしまう。 プロオーケストラの演奏会場を
自分のリスニングルームと勘違いして会場に赴く人たちが多いと聴く。自分の
耳の劣化に気がつかないレベルで、ノイズばかり気にしていることは、大変
もったいないというか、もちろん自分にも当てはまるけれど、神経質になり
すぎて楽しめないことがあることは、悲しむべきことだ。

 脳内での音楽的な感覚トレーニングを続けることは、音楽家を志すならば
絶対条件かもしれない。こういったコトは誰も教えないし、感覚で分かる人は
すでに天才である。 相手にどう聞こえるかを意識せずに滔々と自らの紡ぐ
音楽を相手に丁寧に渡せるかが鍵なのだ。 ノイズを忘れさせるだけの
脳内音楽を相手の中に転送する技術と言ってもいいかもしれない。 かなり
秘儀に近いものを感じる・・・。

2010年11月26日金曜日

ドヴォルザーク交響曲第7番

弾くに弾けないのは辛い。
あまり書く事も無いのですが、

ドヴォルザークの交響曲第七番
のパート譜が出てきたので
ちょっと弾いてみたら悶絶モードに。

こんな激ムズな譜面だったっけなぁ。3回エキストラで
3回目でようやく問題点を理解したのだけど・・・

『詰め込みすぎ』

この一言に要約できますね。ブルックナーが

『薄めて繰り返しすぎ』

の、経文的恍惚感なら、こっちは激辛激甘端折り過ぎ(笑)

普通の作曲家で第7作目なら、もう手馴れて余りムチャはしない
と思うんですが、このメロディーメーカーさんは、自身が持てる
短調の物悲しいモノ全部詰め合わせアソートボックス化した
交響曲を世に出してしまいました。 もう少しゆったりところが
長いと楽なんですが、弦楽器には休む暇なく、低弦も容赦なく
切分音と刻みを交互に与え、チェロにはその合間に面倒な合いの手を
入れさせるという、豪華絢爛お涙チョチョ切れの盛りだくさん。

あまりに複雑な要素が短い時間に凝縮しているためか、音楽的な
流れが全く覚えられません。多彩なフレーズは頭の中でゴッチャに
なって旋回するという感じですね。 コレに似た感じなのはチャイ
コフスキーの交響曲第四番ですがアレよりは救いがあるのに弦楽器を
もって弾く側の負担は半端がない。管楽器も折り重なる部分とか、
メロディーラインがしょっちゅう割り当てられて目立たないところが
無いので気が休まりませんでしょう。

練習15分で投げ出しました。 腕が更に重くなったのです。

あるところで先生が語ってたのを思い出しましたが、
交響曲第八番の第三楽章が女の子の踊りなら、交響曲第七番は若い男性の
活発なダンスだという・・・。 この若者はあまりに乱暴で活舌がワルイと
殴られそうです。

2010年10月23日土曜日

今日の練習

肩壊れて、腰も痛いけどとりあえず練習はする。

やっぱりバッハの無伴奏はキツイな。
考えると普通じゃない動きがおおいもの。

その点、ヴィヴァルディの伴奏付きソナタは楽つか
まあ技巧的な場所も多いんだけど、弾くこと考えて書かれてる。

ま、学生向きに書いたものでもあったと思う。素直な並び・・・
いや当たる音も予想が付く。 
一方、バッハは無伴奏だけに仮想的なバッソコンチヌオまで弾かせ
るから自然と繋がり悪いの。 まんま鍵盤楽曲に編曲できるはず。

指が回るようになると、緩徐楽章(教会ソナタだから1,3楽章ユルい)が
初見で止まらないでいけるようになる。 

この調子で、フォーレのエレジーにに突入すると、何か前より
マシに成った・・・。

毎日弾けばモット良くなるだろうが時間が余り無い。

2010年10月18日月曜日

ヴィトゲンシュタインとマーラー

支配欲に満ちた指揮者をみていると
マーラーを連想する。

ウィトゲンシュタインが、マーラーを細かく観察していたという。
ヴィトゲンシュタインは、マーラーの音楽を評価しない。
ヴィトゲンシュタインは、マーラーの指揮についてこのように語ったという。

「・・・彼が居なくなると、オーケストラは崩壊した」

19世紀末から20世紀の初頭の短い期間、マーラーは非常に卓越した
音響感覚の能力をもって、各地の楽団の音楽監督を勤めている。彼はオリジナ
ル曲を作る傍ら、自らの感覚で曲の解釈を変更している。19世紀活躍した
作曲家はほとんど自作自演であり、職業的音楽家としての楽団指揮者に委ねる
場合、その解釈によって初演がめちゃくちゃにされることが多かったが、
無論、現代では考えられないことでもマーラーはその伝統に従ったことになる。
 ヴァインガルトナーも、ベートーヴェン解釈を加えているし、別にこれらは
19世紀末の所謂われわれがクラシックとよぶ音楽にオーソドックスなるモノが
存在してはいなかったことを象徴する。
 だがマーラーについてははその卓越した能力を強引な主張で打ち消すことに
なったということなのか。 東欧ユダヤ人の家系をもつ彼がウィーンでの活動に
終止符を打たざる得なかったもう一つの理由として、当時のウィーン人が強烈な
反ユダヤ主義を標榜する世論を忘れてはならない。彼は作曲家のキャリアをウィ
ーンではじめたのだったがほとんど省みられることはなかったのだ。
 オーストリア屈指の名家の出であるヴィトゲンシュタインは、幼少の頃にその
風潮を見て育っている。 彼は徹底した世紀末芸術の批判者であったのだ。

2010年10月17日日曜日

四十肩とか五十肩とか

かなり酷いので右腕が上がりにくくなっている。
握力も下がったので朝から練習をしっかりやることにした。

無音

休むべきではなく、音価を感じるべきなのが休符。

無題

伸ばすべきところをしっかり保てないのはココロが弱いからだ。

2010年10月14日木曜日

月曜日の練習を録音して聴いた。

私ども、東大和のハミング・小ホールを借りたのです。

普段は、比較的に響きも良い練習場ですが・・・・
さすがにホールだ、響き方が全然ちがいます。
天井の高い、広いホール。 
オーケストラの技量は常にホールに近い環境で
磨くべきだと思う。 反響板無しで吸い込まない
良い響きってのは、床に起因すると思う・・・

でもね。

"南国のバラ"
ばっらばらでしたね。

なんごくのばら
難曲のばっらばら。


修行が足りないつか、「何時も本番の緊張を持て!」

5年ほど前まで、私は、他所のエキストラやら掛け持ちを
良くしていたものです。

だから初回指揮者+初見とかで緊張したり、本番を駆けずり
回ってから、この 愛するべき、 "小金井市民オーケストラ"
つまりホームオーケストラの練習に来ると、ほんわかした=
なかば弛緩した練習ってのを感じてたんです。

そりゃ、ニヤリニヤリと楽しい音楽も良いですよ。 特に
お客さんを楽しませることを考えたら、絶対「しかめっ面」で
すごいだろう!ってウィンナワルツなんかやりません!

でもねぇ。 モッともっと上にいけるでしょう?

今は、さすがにホーム以外何処にも行かないから、比較が
出来なくてこまるけど、皆、緊張ってのがなさ過ぎるよ!

そりゃあ、うちは年だけは重ねた老練なオーケストラになってます。
すでに設立10年目以前から、ある種の巧みさ(大学オケをしっかりと
こなした経験者の集団)という傾向がありました。
 とくにワルツの手馴れたところのまとめとか、アマチュアなら天下
一品級と褒めたいところも多々ある。 でも、その緊張のなさが、つまり
「一発目の音だしで勝負決めろ」というところが全くない。

だらだら練習しても意味ないんです。 お分かりか。

南国のバラ


あれは、なんとあらわすべき音楽?
北方人の憧れともいうべきものですか?
イタリアから送られる冬場のバラ。

冒頭のフレーズでもう春の温かい風というか
少し潮のにおいすらする風が入ってくる・・・

蜂が蝶が舞い、
朝露がこぼれて・・・

そんなイントロダクションを書く、ヨハン・シュトラウス
(息子)は天才・・・。 モーツァルトとほぼ100年くらいの
ズレですがウィーンってのは本当に天才が集ったんだね。

シュトラウスJrのオーケストレーションってのは一種独特。
厳しい音楽の規則より直感的にいいもの、奇異に響きながら
絶妙なものがブレンドされます。 特にこの曲では、チェロが
後半のワルツで主題とはオクターブはなれて長3度下をなぞりま
すが、このオブリガードっぽいのって、シュトラウス以外じゃ
あまりないんですよね。 コーヒーに新鮮な牛乳を混ぜてカフェ
オレ、いやホイップした生クリームを添えたウィーン風かな。

この下の合いの手、ちゃんと音が出てないとダメなんです。
しかもしっかりとした音程で支えないと共倒れ。 台無し。

まるで親子のような関係。

歴史を紐解けば、シュトラウス親子は実に確執に満ちた関係。 
実に、ライバル同士でウィーンで競いあい・・・まあ、
息子の勝利は間違いない。 弟もなかなか秀逸。 天体の音楽。
あれもロマンチックですばらしい曲だ。 是非やりたい。

2010年10月10日日曜日

フォーレのエレジー

なかなか面倒。やっぱり伴奏のヒトと練習したい。
譜割もそうだけどね。
音程何だか判らなくなるところあり。 あと譜面が直感的でないやこれ。
アンメルの奴、最後の駆け上がる手前でテナー記号に入れかえると、
折れるように見えるから、譜面ヅラで間違って下に降りちゃうじゃないか。

高い音はなんでもないのに、そんなところで引っかかる。

2010年10月8日金曜日

『新世界より』 ドヴォルザークの郷土愛?

ドヴォルザークがアメリカでチェコを想って書いた曲だという。
懐かしい思い出の詰まった音楽だ。
誰にでもそうなるように、仕掛けられている。
いまや、あの有名な第二楽章のテーマは、薄昏に防災無線スピーカーから流されるため刷り込みされている子供も多いと想う。

オーケストラで練習中に涙が出てくることが時々あるが、この曲にはそういう場所が多々ある。

うちのオケで、
ドヴォルザークの交響曲第9番に取組んだのは3回目らしい。
最初の取り組みは第5回定期、今や第28回ファミリーコンサート。
12月12日・東大和ハミングホールでの本番に向けて毎週練習している。

あれから23年の月日が流れたけれど、あの時と変わらない譜面なんだよな。

 個人的にも演奏会曲目として参加するのは3回目。 1回目はなにもわからない無骨なチェロを弾く高校生だった私。結局大学に行くのに挫折してあとはずるずるだらしなく適当な人生、身を持ち崩して終わりかと思いきや、捨てる神あれば拾う神あり・・・下も見たけど、家庭も持ち、子供もしっかりそだち、飯もまあまあ食える。まあ幸せとはこんなものだと思えばこその人生か。

こうして生きてまた若い頃(苦い頃の)音楽に再びめぐり合うことを喜ばなくてはね。

2度目は、エキストラ・・・多少は緊張したけれど、もう既に曲を知り尽くしていた気がした時分の間違いにいっぱい気が付く。高校時代の甘い読みで何がわかったというのだ! ここで又一つ進歩した。約17年を置いての再会は、私の技術に多少の進歩を与えたのだ・・・というほのかな確信を得る。

そしてまた、6年ぶりに出会う。 今度はチェロパートのトップである。 もちろん第二楽章デュオは美々しく、そして最後はチェロコンチェルトのように、高校時分には眼もくらんだろう高い高い変ニの音をらくらくと取れる・・・。 なんて楽しい音楽の時間だろうか。

諸君、アマチュア弦楽器奏者は諦めないこと。 何時までも、しつこく弾いているとそのうち成長できます。ただし、武者修行は過酷なので覚悟するように。 先生についてレッスンするのはとてもいいこと。

余裕を保つための個人練習をやろう。

私とドヴォルザークについて

今、序曲『自然の王国で』を聞いている。

これは三部作(自然、祝祭、愛)を通して描いたドヴォルザークの音楽的人間論。
その「自然」という人間が抗いがたい世界。それは田園風景ともちがう。

この曲は珍しくメロディはあまり多く詰め込まれてないけれど、どうにも印象深いものばかり。ドヴォルザークは色鮮やかな世界を作り上げられる19世紀最大のメロディーメーカー。ブラームスをはじめとして多くの作曲家が嫉妬したのだった。

きわめて平明な音楽だ。譜面もきわめて簡明だが、けっしてチェリストにとって容易であると言い切れない(笑)

今から何年か前に小金井市民オーケストラで演奏会曲目に取り上げられてまさに親しくなるまで弾いたのだけれど、やはりまだまだ落ち着いてその色合いを感じ取れるまでに至らなかったことが悔やまれる。

そう。「もう、聞き飽きた」と云う曲はしばらく寝かせてから聞きなおすことは大切だ。

これに続く『謝肉祭』もミューザ川崎が出来たときにアマチュアオーケストラの集団に混ぜてもらって弾いた。 これもアマチュア・チェロ奏者にはそれほど易しくない世界だけれど、この曲を経験した辺りからト音記号の土地勘が付いてドヴォルザークが弾きやすく感じられるようになる。


交響詩『野鳩』も、蒲田で演奏会をするアマチュアオーケストラの末席で弾いたけど難しいんだよな・・・チェロパートは。 自然の王国のほんわか感世界とは正反対。暗くて暗くて・・・息苦しい。 第七交響曲の切迫感にも似るけれど、生命感に溢れる感覚ではなく
ここには薄ら暗い殺人の暗示がある。

いま聞いてみたいとは今思えないけれど、そのうち聞けるだろう。

ドヴォルザークは自分がその音楽を余裕を持って受け取る側に行けば行くほど嬉しくなってしまう要素に溢れている。 まだまだいろいろある。

2010年10月5日火曜日

音楽は他人のためにあるのかな

脳内音楽なら、別に他人に聞こえなくてもいい。
モーツァルト、ベートーヴェンは、きっと脳内で正しく鳴っていたはず。

要するにオリジナリティあるものを
取り出せるかどうかなのだけど。

一方で、ブラームスの音楽は違うらしい。 ヴィトゲンシュタインの洞察。
ペンの上で作られる音楽。 彼は音が視覚になって現れるのだろうか。
ただし、ピアノ曲に限っては自己の世界に没入している。
最近、ネヴィル・マリナーが、彼の師匠であるモントゥーがブラームスとピアノ
五重奏曲をあわせたときのエピソードを語っていたのを、NHKの番組で見たのだが
彼自身は自ら弾くピアノの音だけに集中していたそうだ。つまり自身のチェックが
もっとも厳しい人間なのだった。 晩年の枯れ木のような交響曲第四番の渋さは
当時若い木で芽吹いたばかりマーラーには理解できなかった。

晩年のドヴォルザークは? このヒトは脳内だけでなく全身からだろうな。
チェコを愛した彼の血が書かせるのだから、理屈を越えている。

大バッハの若い時の作品は、ドヴォルザークに近い感じがする。
家族愛に溢れた作品、親しい仲間内の音楽、耳から聞いたものを素直に。
敬虔主義に傾いた頃から神との対話になり、高度な脳内の音楽と化す。

孤高を気取ることは楽しい

気取るだけなら誰でも出来る。

一度は世捨て人をやらなければ、世界を見直すことは出来ない。

社会に貢献したいなと思ったら帰れば良い。
何事も「魂を曲げない」ことが大事。

ちょっとこの思想のどこかにフランク・ハーバート入ってるな。
用心しなくては。

2010年10月1日金曜日

朝の音楽








ニコライ:歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団
マーラー:交響曲 第5番 嬰ハ短調 第5楽章Chicago SO/ Sir Georg Solti
ヤナーチェック:Sinfonietta: 1.ファンファーレRögner/ Rundfunk-Sinfonie-Orchester Berlin
セバスチャンバッハ:Brandenburg Concerto #3 In G, BWV 1048 - 1. AllegroTon Koopman; Amsterdam Baroque Orchestra
モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番ニ長調K.537「戴冠式」 - 第3楽章アーノンクール グルダ
ブラームス:交響曲第2番第4楽章  Allegro con spiritoRiccard Chailly / Royal Concertgebouw Orchestra

2010年8月23日月曜日

四十肩で

ボウが重い、つかボウイング痛い。
でも、それくらいの方が力が抜けて良い感じ。

音量は、力を抜くことで更に増すことを知る。

2010年8月9日月曜日

夏休みだつうのに

チェロを持って合奏に行った。 初見譜だったけどバッハからベートーヴェンくらいなら屁じゃない動じない。 さくさく指動く。 時々譜読み失敗、譜割間違いしてイラツク・・・さらい直せばなんとか!

その頭脳的格闘の効果が出る。 さっきテレビでみて、ちょっと解けなかった小難しい問題が解けるように成るじゃない・・・


やはり楽器を弾くと、ぼわっとした頭が少し働くようになるらしい。 初見は効果絶大・・・疲れるけど。 初見能力が格段に進歩した自分、昔より頭は良くなってると思う時がある。 でも多分気のせい(笑)