2010年10月23日土曜日

今日の練習

肩壊れて、腰も痛いけどとりあえず練習はする。

やっぱりバッハの無伴奏はキツイな。
考えると普通じゃない動きがおおいもの。

その点、ヴィヴァルディの伴奏付きソナタは楽つか
まあ技巧的な場所も多いんだけど、弾くこと考えて書かれてる。

ま、学生向きに書いたものでもあったと思う。素直な並び・・・
いや当たる音も予想が付く。 
一方、バッハは無伴奏だけに仮想的なバッソコンチヌオまで弾かせ
るから自然と繋がり悪いの。 まんま鍵盤楽曲に編曲できるはず。

指が回るようになると、緩徐楽章(教会ソナタだから1,3楽章ユルい)が
初見で止まらないでいけるようになる。 

この調子で、フォーレのエレジーにに突入すると、何か前より
マシに成った・・・。

毎日弾けばモット良くなるだろうが時間が余り無い。

2010年10月18日月曜日

ヴィトゲンシュタインとマーラー

支配欲に満ちた指揮者をみていると
マーラーを連想する。

ウィトゲンシュタインが、マーラーを細かく観察していたという。
ヴィトゲンシュタインは、マーラーの音楽を評価しない。
ヴィトゲンシュタインは、マーラーの指揮についてこのように語ったという。

「・・・彼が居なくなると、オーケストラは崩壊した」

19世紀末から20世紀の初頭の短い期間、マーラーは非常に卓越した
音響感覚の能力をもって、各地の楽団の音楽監督を勤めている。彼はオリジナ
ル曲を作る傍ら、自らの感覚で曲の解釈を変更している。19世紀活躍した
作曲家はほとんど自作自演であり、職業的音楽家としての楽団指揮者に委ねる
場合、その解釈によって初演がめちゃくちゃにされることが多かったが、
無論、現代では考えられないことでもマーラーはその伝統に従ったことになる。
 ヴァインガルトナーも、ベートーヴェン解釈を加えているし、別にこれらは
19世紀末の所謂われわれがクラシックとよぶ音楽にオーソドックスなるモノが
存在してはいなかったことを象徴する。
 だがマーラーについてははその卓越した能力を強引な主張で打ち消すことに
なったということなのか。 東欧ユダヤ人の家系をもつ彼がウィーンでの活動に
終止符を打たざる得なかったもう一つの理由として、当時のウィーン人が強烈な
反ユダヤ主義を標榜する世論を忘れてはならない。彼は作曲家のキャリアをウィ
ーンではじめたのだったがほとんど省みられることはなかったのだ。
 オーストリア屈指の名家の出であるヴィトゲンシュタインは、幼少の頃にその
風潮を見て育っている。 彼は徹底した世紀末芸術の批判者であったのだ。

2010年10月17日日曜日

四十肩とか五十肩とか

かなり酷いので右腕が上がりにくくなっている。
握力も下がったので朝から練習をしっかりやることにした。

無音

休むべきではなく、音価を感じるべきなのが休符。

無題

伸ばすべきところをしっかり保てないのはココロが弱いからだ。

2010年10月14日木曜日

月曜日の練習を録音して聴いた。

私ども、東大和のハミング・小ホールを借りたのです。

普段は、比較的に響きも良い練習場ですが・・・・
さすがにホールだ、響き方が全然ちがいます。
天井の高い、広いホール。 
オーケストラの技量は常にホールに近い環境で
磨くべきだと思う。 反響板無しで吸い込まない
良い響きってのは、床に起因すると思う・・・

でもね。

"南国のバラ"
ばっらばらでしたね。

なんごくのばら
難曲のばっらばら。


修行が足りないつか、「何時も本番の緊張を持て!」

5年ほど前まで、私は、他所のエキストラやら掛け持ちを
良くしていたものです。

だから初回指揮者+初見とかで緊張したり、本番を駆けずり
回ってから、この 愛するべき、 "小金井市民オーケストラ"
つまりホームオーケストラの練習に来ると、ほんわかした=
なかば弛緩した練習ってのを感じてたんです。

そりゃ、ニヤリニヤリと楽しい音楽も良いですよ。 特に
お客さんを楽しませることを考えたら、絶対「しかめっ面」で
すごいだろう!ってウィンナワルツなんかやりません!

でもねぇ。 モッともっと上にいけるでしょう?

今は、さすがにホーム以外何処にも行かないから、比較が
出来なくてこまるけど、皆、緊張ってのがなさ過ぎるよ!

そりゃあ、うちは年だけは重ねた老練なオーケストラになってます。
すでに設立10年目以前から、ある種の巧みさ(大学オケをしっかりと
こなした経験者の集団)という傾向がありました。
 とくにワルツの手馴れたところのまとめとか、アマチュアなら天下
一品級と褒めたいところも多々ある。 でも、その緊張のなさが、つまり
「一発目の音だしで勝負決めろ」というところが全くない。

だらだら練習しても意味ないんです。 お分かりか。

南国のバラ


あれは、なんとあらわすべき音楽?
北方人の憧れともいうべきものですか?
イタリアから送られる冬場のバラ。

冒頭のフレーズでもう春の温かい風というか
少し潮のにおいすらする風が入ってくる・・・

蜂が蝶が舞い、
朝露がこぼれて・・・

そんなイントロダクションを書く、ヨハン・シュトラウス
(息子)は天才・・・。 モーツァルトとほぼ100年くらいの
ズレですがウィーンってのは本当に天才が集ったんだね。

シュトラウスJrのオーケストレーションってのは一種独特。
厳しい音楽の規則より直感的にいいもの、奇異に響きながら
絶妙なものがブレンドされます。 特にこの曲では、チェロが
後半のワルツで主題とはオクターブはなれて長3度下をなぞりま
すが、このオブリガードっぽいのって、シュトラウス以外じゃ
あまりないんですよね。 コーヒーに新鮮な牛乳を混ぜてカフェ
オレ、いやホイップした生クリームを添えたウィーン風かな。

この下の合いの手、ちゃんと音が出てないとダメなんです。
しかもしっかりとした音程で支えないと共倒れ。 台無し。

まるで親子のような関係。

歴史を紐解けば、シュトラウス親子は実に確執に満ちた関係。 
実に、ライバル同士でウィーンで競いあい・・・まあ、
息子の勝利は間違いない。 弟もなかなか秀逸。 天体の音楽。
あれもロマンチックですばらしい曲だ。 是非やりたい。

2010年10月10日日曜日

フォーレのエレジー

なかなか面倒。やっぱり伴奏のヒトと練習したい。
譜割もそうだけどね。
音程何だか判らなくなるところあり。 あと譜面が直感的でないやこれ。
アンメルの奴、最後の駆け上がる手前でテナー記号に入れかえると、
折れるように見えるから、譜面ヅラで間違って下に降りちゃうじゃないか。

高い音はなんでもないのに、そんなところで引っかかる。

2010年10月8日金曜日

『新世界より』 ドヴォルザークの郷土愛?

ドヴォルザークがアメリカでチェコを想って書いた曲だという。
懐かしい思い出の詰まった音楽だ。
誰にでもそうなるように、仕掛けられている。
いまや、あの有名な第二楽章のテーマは、薄昏に防災無線スピーカーから流されるため刷り込みされている子供も多いと想う。

オーケストラで練習中に涙が出てくることが時々あるが、この曲にはそういう場所が多々ある。

うちのオケで、
ドヴォルザークの交響曲第9番に取組んだのは3回目らしい。
最初の取り組みは第5回定期、今や第28回ファミリーコンサート。
12月12日・東大和ハミングホールでの本番に向けて毎週練習している。

あれから23年の月日が流れたけれど、あの時と変わらない譜面なんだよな。

 個人的にも演奏会曲目として参加するのは3回目。 1回目はなにもわからない無骨なチェロを弾く高校生だった私。結局大学に行くのに挫折してあとはずるずるだらしなく適当な人生、身を持ち崩して終わりかと思いきや、捨てる神あれば拾う神あり・・・下も見たけど、家庭も持ち、子供もしっかりそだち、飯もまあまあ食える。まあ幸せとはこんなものだと思えばこその人生か。

こうして生きてまた若い頃(苦い頃の)音楽に再びめぐり合うことを喜ばなくてはね。

2度目は、エキストラ・・・多少は緊張したけれど、もう既に曲を知り尽くしていた気がした時分の間違いにいっぱい気が付く。高校時代の甘い読みで何がわかったというのだ! ここで又一つ進歩した。約17年を置いての再会は、私の技術に多少の進歩を与えたのだ・・・というほのかな確信を得る。

そしてまた、6年ぶりに出会う。 今度はチェロパートのトップである。 もちろん第二楽章デュオは美々しく、そして最後はチェロコンチェルトのように、高校時分には眼もくらんだろう高い高い変ニの音をらくらくと取れる・・・。 なんて楽しい音楽の時間だろうか。

諸君、アマチュア弦楽器奏者は諦めないこと。 何時までも、しつこく弾いているとそのうち成長できます。ただし、武者修行は過酷なので覚悟するように。 先生についてレッスンするのはとてもいいこと。

余裕を保つための個人練習をやろう。

私とドヴォルザークについて

今、序曲『自然の王国で』を聞いている。

これは三部作(自然、祝祭、愛)を通して描いたドヴォルザークの音楽的人間論。
その「自然」という人間が抗いがたい世界。それは田園風景ともちがう。

この曲は珍しくメロディはあまり多く詰め込まれてないけれど、どうにも印象深いものばかり。ドヴォルザークは色鮮やかな世界を作り上げられる19世紀最大のメロディーメーカー。ブラームスをはじめとして多くの作曲家が嫉妬したのだった。

きわめて平明な音楽だ。譜面もきわめて簡明だが、けっしてチェリストにとって容易であると言い切れない(笑)

今から何年か前に小金井市民オーケストラで演奏会曲目に取り上げられてまさに親しくなるまで弾いたのだけれど、やはりまだまだ落ち着いてその色合いを感じ取れるまでに至らなかったことが悔やまれる。

そう。「もう、聞き飽きた」と云う曲はしばらく寝かせてから聞きなおすことは大切だ。

これに続く『謝肉祭』もミューザ川崎が出来たときにアマチュアオーケストラの集団に混ぜてもらって弾いた。 これもアマチュア・チェロ奏者にはそれほど易しくない世界だけれど、この曲を経験した辺りからト音記号の土地勘が付いてドヴォルザークが弾きやすく感じられるようになる。


交響詩『野鳩』も、蒲田で演奏会をするアマチュアオーケストラの末席で弾いたけど難しいんだよな・・・チェロパートは。 自然の王国のほんわか感世界とは正反対。暗くて暗くて・・・息苦しい。 第七交響曲の切迫感にも似るけれど、生命感に溢れる感覚ではなく
ここには薄ら暗い殺人の暗示がある。

いま聞いてみたいとは今思えないけれど、そのうち聞けるだろう。

ドヴォルザークは自分がその音楽を余裕を持って受け取る側に行けば行くほど嬉しくなってしまう要素に溢れている。 まだまだいろいろある。

2010年10月5日火曜日

音楽は他人のためにあるのかな

脳内音楽なら、別に他人に聞こえなくてもいい。
モーツァルト、ベートーヴェンは、きっと脳内で正しく鳴っていたはず。

要するにオリジナリティあるものを
取り出せるかどうかなのだけど。

一方で、ブラームスの音楽は違うらしい。 ヴィトゲンシュタインの洞察。
ペンの上で作られる音楽。 彼は音が視覚になって現れるのだろうか。
ただし、ピアノ曲に限っては自己の世界に没入している。
最近、ネヴィル・マリナーが、彼の師匠であるモントゥーがブラームスとピアノ
五重奏曲をあわせたときのエピソードを語っていたのを、NHKの番組で見たのだが
彼自身は自ら弾くピアノの音だけに集中していたそうだ。つまり自身のチェックが
もっとも厳しい人間なのだった。 晩年の枯れ木のような交響曲第四番の渋さは
当時若い木で芽吹いたばかりマーラーには理解できなかった。

晩年のドヴォルザークは? このヒトは脳内だけでなく全身からだろうな。
チェコを愛した彼の血が書かせるのだから、理屈を越えている。

大バッハの若い時の作品は、ドヴォルザークに近い感じがする。
家族愛に溢れた作品、親しい仲間内の音楽、耳から聞いたものを素直に。
敬虔主義に傾いた頃から神との対話になり、高度な脳内の音楽と化す。

孤高を気取ることは楽しい

気取るだけなら誰でも出来る。

一度は世捨て人をやらなければ、世界を見直すことは出来ない。

社会に貢献したいなと思ったら帰れば良い。
何事も「魂を曲げない」ことが大事。

ちょっとこの思想のどこかにフランク・ハーバート入ってるな。
用心しなくては。

2010年10月1日金曜日

朝の音楽








ニコライ:歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団
マーラー:交響曲 第5番 嬰ハ短調 第5楽章Chicago SO/ Sir Georg Solti
ヤナーチェック:Sinfonietta: 1.ファンファーレRögner/ Rundfunk-Sinfonie-Orchester Berlin
セバスチャンバッハ:Brandenburg Concerto #3 In G, BWV 1048 - 1. AllegroTon Koopman; Amsterdam Baroque Orchestra
モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番ニ長調K.537「戴冠式」 - 第3楽章アーノンクール グルダ
ブラームス:交響曲第2番第4楽章  Allegro con spiritoRiccard Chailly / Royal Concertgebouw Orchestra