2011年12月8日木曜日

11月末の演奏会と私の歴史について

私の育った小金井市のアマチュアオーケストラは2つ。その古参のオーケストラに
所属する私。今年でもう何回、演奏会でチェロ挽いたのだろう。数えてみる。
録音DATを某氏から預かった。Wavファイルにに出来ているものはある。
だめなものも多数あった。

その前に、今回のファミリーコンサートについて少し書く。
練習がこれまでの演奏会に比べて非常に短い期間(9月からはじめて11月末に仕上げる)というタイトなスケジュールであったにもかかわらず、本番ではチェロパートとしては80点〜90点くらいの仕上げになったと思えるくらいだった。無論、アマチュアだからがさつなものは残るが、それにしてもこの短期に、新人1名を加えてエキストラ多数の中、難曲と思うベートーヴェンの交響曲第4番に取り組んで崩壊しなかったのは奇跡的だった。私個人としては70点くらいの出来と諦めていたが録音を聴くと意外や意外!ウィーンホールという日本でも随一の音響効果を持つホールに助けられていい演奏会になったと思う。 こんなにいい演奏会だったのだから、もう少し宣伝すればよかった。

では、今までのチェロ戦闘の歴史を明かすことにする。

私が高校1年のことだ。 中学のOBが先輩風を吹かせてOBオーケストラに入れというのだ。彼らは強引に卒業したばかりの私や同期をOBオーケストラの演奏会に載せた。練習は滅茶苦茶だったし、まず選曲が酷かった。練習と称してドヴォルザークの交響曲第8番の譜面をいきなり初見で弾かせて弾けないと腹を立てるチェロの大先輩。オーディションを受ける覚悟でもないのにあんなものが碌々練習もできてない3年目の小僧に弾けるはずがない。 挙句、その曲ができないと悟ったのだろう、『魔笛』『ブルッフのVnコン』『ビゼーの交響曲』という曲になった。 この時のエキストラには後に出会うことになる。
学校が小平だったので、東村山の友達も多かった。その一人が東村山のアマチュアオーケストラに誘った。そこは今や、チェロの大先生が団長を務めるアマチュアオーケストラでチェロもたくさんいるオーケストラだが、当時はチェロが払底しており私よりもはるかに年上のアマチュアプレーヤたちがわずかに在籍していた。彼らはレイトスターターだったのだろう、私も、まともにレッスンについていたのが1年あるかないかだったわけで粗暴な高校生の私の雑音に耐えかねたのか、彼らは私が来るとすぐにもトップの座を明け渡してしまった。夏ごろから演奏会に向けてベートーヴェンの『英雄』の練習をしていたのだったが、折しも指導をしていた方が亡くなってしまうハプニングを迎えた。 チェロの彼らも次第に練習に来なくなってしまい、ひどい時期には私が一人で「チェロパート」を支えることになった。この時期から私のチェロ一匹狼状態が約束されていたようだ。 エキストラの方を数名加えての演奏会は、たしか『ピーターと狼』でこれはディヴィジョンで弾くべき重音が山のようにあったが、かじりついて弾いたものだった。またエキストラというよりはオーケストラ以外の小さなアンサンブルにもちょくちょく誘われて、バッハのブランデンブルグ5番のチェロ(一人)なども演ったような記憶がある。
この時期ドヴォルザークの交響曲第8番を演ったと思う。その際東村山に見えたエキストラのSさんとMさん(おねえさま方)のクルマに乗って食事をしたことを覚えている。その時私は見出されたのか誘われたのか?よく覚えてないけれど、彼女らが実家のある市内にオーケストラのメンバーだったことをこれ幸いと、チェロの居ない東村山のオーケストラから移籍することにした(逃げたとも云うだろう)。 その当時は何処に行くにもナイロンケースの楽器の袋に詰めて移動していた。歩くことばかりだった。自分の町のアマチュアオーケストラに所属することでようやく彷徨えるチェロリストはホームを持つことができた。未だ働いてもいない私にとって、オーケストラの練習に移動する費用だけでも厳しかったので、私が辞めることを止めることは出来なかっただろうと思われる。

小金井の歴史

第3回のファミリーコンサートは、中学の先輩が出るというので聞きに行った記憶がある。確かバッハの二つのバイオリンのための協奏曲だった。この時に市民のオーケストラ存在を知っていたが、中学生だった私はこの楽団に縁があるとは思っていなかったのだろう。実は当時から中学生が楽団にいた事を知っていたら、入団したかもしれない。

第4回ファミリーコンサート ← 1987年かそこらだ。高校生の時分。
曲は確かフィンランディア、カレリア、未完成…なんというか余り覚えてない。
第5回定期演奏会      ← 1988年春の話だと思う。(カセット録音がある)
曲は確かドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』とハイドンの『時計』。
練習回数の多さから、トップサイド(1プルト裏)というビックリなポジションに抜擢された。

第5回ファミコン 覚えてない。←ホームページから見た。省略。
第6回定期     ほとんど記憶なし。
第6回ファミコン
・・・ ええいめんどくさい。

http://www.koganei-civic-orch.org/rireki.vol6-10.html 

そうだ。10回までは確実に演奏会をこなしたはずだ。
11回辺りから少しずつ記憶があるというか、デジタル媒体での記録が
出てくる。


第11回定期  ← これはDATデータをWav化した
〔日時〕平成5年5月23日(1993)
〔会場〕ルミエール府中
〔指揮〕藤本 潤
〔曲目〕
シューマン:交響曲第4番
ドビュッシー:小組曲
モーツァルト:歌劇「魔笛」序曲


第11回ファミ       ← このDATはデータが壊れていた。
〔日時〕平成5年11月28日
〔会場〕小金井市公会堂
〔指揮〕城谷 正博
〔ナレーション〕池本 実千代
〔曲目〕
ベートーヴェン:交響曲第1番
ビゼー:「カルメン」組曲
アンダーソン名曲集


今や、日本のクラシック音楽業界でも幾分名の知れた指揮者の名前がある。
1993〜1997年という時期は、エキストラを幾つもこなしていた時期でもう弾けないと思うくらいだったはず。自動車の免許を取得したこともあり、徒歩+電車+バスというチェロを担いで行くと辛い場所でも気軽に出かけて活動範囲が広がっていったのだ。 小平、清瀬、稲城、三鷹・・・ 正直この時期は年4回程度のペースを超えていたはずだ。仕事が忙しいので少し減ってはいたものの…

結婚。川崎に移り住んで、1997年6月に息子が生まれて仕事も忙しくなったことがあり、2002年までまる5年楽器を封印していた時期がある。この時期を過ぎると、この封印時期の反動であろうかエキストラを引き受けまくることになる。 2002年の第20回定期はほとんど記憶がないものの、シューマンの交響曲第一番だったことは覚えている。封印を解いた時期のチェロは鳴らなかったが、勘と腕は戻りつつあった。以前はトップだったのだが、後ろのほうで弾くことになったのも懐かしい思い出だ。この時期は川崎にもオーケストラがあり、ミューザ川崎が出来上がる事も聞いていたので、オーケストラに入ってみようという気になった。高津にはしばらくお世話になったものだ。この時期は二足のわらじ状態で土曜日・日曜日完全に塞がることが辛くなっていった。 2003年12月にミューザ川崎が竣工し、夏の演奏会と冬の第9が終わる頃には仕事に無理が出るほどになりつつあったので、これを機に高津をお休み(自然に退団)ということになった。今の自宅は高津が近いのだけれど。

2002年に、エキストラ活動が活発化した夏、これもちょっと弦楽器の難曲に数えられるシューマンの交響曲第2番に取り組んだ。今も良くエキストラでトップの方が来てくださる某オーケストラのエキストラだったけれど、当時新進気鋭の山田和樹氏の指揮で演奏会に。翌年はチャイコフスキーの第4交響曲という疲労困憊する難物をに取り組んだ。寒い時期に合宿に息子と家内同伴であったが、この時の印象が凄まじかったのか、我が豚児の将来が決まってしまったようだ。それはそうだろう。子供の世話を交互に見るついでに二箇所のオーケストラの練習に付きあわせたり、エキストラがあればそこにも連れて行くという事(音楽を聞いて静かにできる事が条件だったがこの条件がこなせるようになっていたこともある)がどれだけ影響与えたかわからない。

2005年ころからは、ミューザで知り合った方が、 2002年に山田和樹氏が振ったエキストラのオーケストラでも一緒だったことを知り、以来この方から多数のエキストラ紹介を受けることになる。あまりに多かったために私も全て回れなかったりした。有名ドコロを紹介されたけれど、エキストラも回り過ぎてカラダに支障をきたすほどだった私は、2007年頃からすべてのエキストラを断った。 この時期に小金井の関係でもエキストラ話しはいくつかあって、アマチュアだかセミプロだかよく分からないオペラに参加したこともあった。今から思えば不勉強極まりない事が何度も何度もあって・・・さらう時間も調べる時間すら無くて残念な物が多かった。エキストラやイベントオーケストラが嫌になったのは、自分のさらう時間も足らず、音楽に対する興味が涌かなくなるほどの忙しさがあったのだ。

2011年晩秋、小金井市民オーケストラは第29回のファミリーコンサートが終わって、本来ならば、記念すべき第30回の定期演奏会のための時期に入っているはずだったが、2011年3月11日の東日本大震災による影響で、2012年3月11日までは、小金井市民オーケストラ主催の音楽会をすることは見送られた。

僕の意見は『主催事業をやらないオーケストラは解散したも同然」だとおもう。 
だから第30回が連続して行われている定期演奏会として再開できるかは、3.11の
演奏会後の有志で出た皆の心と、出られなかった人々の気持ちが集まれるかどうか
だと思う。まあわずか3ヶ月だから…というが、僕はおかしな話だと思っている。

そして、僕は3.11のイベントに参加しないという選択肢を選んだ。

理由? 僕は『主催事業でないエキストラメンバーとしての小金井市民オーケストラの有志』であって実態は別な演奏団体がコアになるであろうという形式では満足ができない。しかも『Requiem』だ。 こいつはイベントもので載ったことがあるが、トップ奏者としてではなかった。トップの奏者連中は最後の頃に来て勝手なことをいうだろう。あんな演奏会までのやるせない練習はもう懲り懲りである。 そして、もめにもめている小金井のホールに関する限り政治的な色合いがないとは言えない。 オーケストラの規約にも随分と外れている。 私だけの経験であったとしても、イベントものは数回やって懲りた。『イベント一発オケ』の嫌な経験を積みすぎた僕は新しい団体に所属することで、ささやかな抵抗を示すのは間違いだろうか?

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