弾くに弾けないのは辛い。
あまり書く事も無いのですが、
ドヴォルザークの交響曲第七番のパート譜が出てきたので
ちょっと弾いてみたら悶絶モードに。
こんな激ムズな譜面だったっけなぁ。3回エキストラで
3回目でようやく問題点を理解したのだけど・・・
『詰め込みすぎ』
この一言に要約できますね。ブルックナーが
『薄めて繰り返しすぎ』
の、経文的恍惚感なら、こっちは激辛激甘端折り過ぎ(笑)
普通の作曲家で第7作目なら、もう手馴れて余りムチャはしない
と思うんですが、このメロディーメーカーさんは、自身が持てる
短調の物悲しいモノ全部詰め合わせアソートボックス化した
交響曲を世に出してしまいました。 もう少しゆったりところが
長いと楽なんですが、弦楽器には休む暇なく、低弦も容赦なく
切分音と刻みを交互に与え、チェロにはその合間に面倒な合いの手を
入れさせるという、豪華絢爛お涙チョチョ切れの盛りだくさん。
あまりに複雑な要素が短い時間に凝縮しているためか、音楽的な
流れが全く覚えられません。多彩なフレーズは頭の中でゴッチャに
なって旋回するという感じですね。 コレに似た感じなのはチャイ
コフスキーの交響曲第四番ですがアレよりは救いがあるのに弦楽器を
もって弾く側の負担は半端がない。管楽器も折り重なる部分とか、
メロディーラインがしょっちゅう割り当てられて目立たないところが
無いので気が休まりませんでしょう。
練習15分で投げ出しました。 腕が更に重くなったのです。
あるところで先生が語ってたのを思い出しましたが、
交響曲第八番の第三楽章が女の子の踊りなら、交響曲第七番は若い男性の
活発なダンスだという・・・。 この若者はあまりに乱暴で活舌がワルイと
殴られそうです。
2010年10月8日金曜日
『新世界より』 ドヴォルザークの郷土愛?
ドヴォルザークがアメリカでチェコを想って書いた曲だという。
懐かしい思い出の詰まった音楽だ。
誰にでもそうなるように、仕掛けられている。
いまや、あの有名な第二楽章のテーマは、薄昏に防災無線スピーカーから流されるため刷り込みされている子供も多いと想う。
オーケストラで練習中に涙が出てくることが時々あるが、この曲にはそういう場所が多々ある。
うちのオケで、
ドヴォルザークの交響曲第9番に取組んだのは3回目らしい。
最初の取り組みは第5回定期、今や第28回ファミリーコンサート。
12月12日・東大和ハミングホールでの本番に向けて毎週練習している。
あれから23年の月日が流れたけれど、あの時と変わらない譜面なんだよな。
個人的にも演奏会曲目として参加するのは3回目。 1回目はなにもわからない無骨なチェロを弾く高校生だった私。結局大学に行くのに挫折してあとはずるずるだらしなく適当な人生、身を持ち崩して終わりかと思いきや、捨てる神あれば拾う神あり・・・下も見たけど、家庭も持ち、子供もしっかりそだち、飯もまあまあ食える。まあ幸せとはこんなものだと思えばこその人生か。
こうして生きてまた若い頃(苦い頃の)音楽に再びめぐり合うことを喜ばなくてはね。
2度目は、エキストラ・・・多少は緊張したけれど、もう既に曲を知り尽くしていた気がした時分の間違いにいっぱい気が付く。高校時代の甘い読みで何がわかったというのだ! ここで又一つ進歩した。約17年を置いての再会は、私の技術に多少の進歩を与えたのだ・・・というほのかな確信を得る。
そしてまた、6年ぶりに出会う。 今度はチェロパートのトップである。 もちろん第二楽章デュオは美々しく、そして最後はチェロコンチェルトのように、高校時分には眼もくらんだろう高い高い変ニの音をらくらくと取れる・・・。 なんて楽しい音楽の時間だろうか。
諸君、アマチュア弦楽器奏者は諦めないこと。 何時までも、しつこく弾いているとそのうち成長できます。ただし、武者修行は過酷なので覚悟するように。 先生についてレッスンするのはとてもいいこと。
余裕を保つための個人練習をやろう。
懐かしい思い出の詰まった音楽だ。
誰にでもそうなるように、仕掛けられている。
いまや、あの有名な第二楽章のテーマは、薄昏に防災無線スピーカーから流されるため刷り込みされている子供も多いと想う。
オーケストラで練習中に涙が出てくることが時々あるが、この曲にはそういう場所が多々ある。
うちのオケで、
ドヴォルザークの交響曲第9番に取組んだのは3回目らしい。
最初の取り組みは第5回定期、今や第28回ファミリーコンサート。
12月12日・東大和ハミングホールでの本番に向けて毎週練習している。
あれから23年の月日が流れたけれど、あの時と変わらない譜面なんだよな。
個人的にも演奏会曲目として参加するのは3回目。 1回目はなにもわからない無骨なチェロを弾く高校生だった私。結局大学に行くのに挫折してあとはずるずるだらしなく適当な人生、身を持ち崩して終わりかと思いきや、捨てる神あれば拾う神あり・・・下も見たけど、家庭も持ち、子供もしっかりそだち、飯もまあまあ食える。まあ幸せとはこんなものだと思えばこその人生か。
こうして生きてまた若い頃(苦い頃の)音楽に再びめぐり合うことを喜ばなくてはね。
2度目は、エキストラ・・・多少は緊張したけれど、もう既に曲を知り尽くしていた気がした時分の間違いにいっぱい気が付く。高校時代の甘い読みで何がわかったというのだ! ここで又一つ進歩した。約17年を置いての再会は、私の技術に多少の進歩を与えたのだ・・・というほのかな確信を得る。
そしてまた、6年ぶりに出会う。 今度はチェロパートのトップである。 もちろん第二楽章デュオは美々しく、そして最後はチェロコンチェルトのように、高校時分には眼もくらんだろう高い高い変ニの音をらくらくと取れる・・・。 なんて楽しい音楽の時間だろうか。
諸君、アマチュア弦楽器奏者は諦めないこと。 何時までも、しつこく弾いているとそのうち成長できます。ただし、武者修行は過酷なので覚悟するように。 先生についてレッスンするのはとてもいいこと。
余裕を保つための個人練習をやろう。
私とドヴォルザークについて
今、序曲『自然の王国で』を聞いている。
これは三部作(自然、祝祭、愛)を通して描いたドヴォルザークの音楽的人間論。
その「自然」という人間が抗いがたい世界。それは田園風景ともちがう。
この曲は珍しくメロディはあまり多く詰め込まれてないけれど、どうにも印象深いものばかり。ドヴォルザークは色鮮やかな世界を作り上げられる19世紀最大のメロディーメーカー。ブラームスをはじめとして多くの作曲家が嫉妬したのだった。
きわめて平明な音楽だ。譜面もきわめて簡明だが、けっしてチェリストにとって容易であると言い切れない(笑)
今から何年か前に小金井市民オーケストラで演奏会曲目に取り上げられてまさに親しくなるまで弾いたのだけれど、やはりまだまだ落ち着いてその色合いを感じ取れるまでに至らなかったことが悔やまれる。
そう。「もう、聞き飽きた」と云う曲はしばらく寝かせてから聞きなおすことは大切だ。
これに続く『謝肉祭』もミューザ川崎が出来たときにアマチュアオーケストラの集団に混ぜてもらって弾いた。 これもアマチュア・チェロ奏者にはそれほど易しくない世界だけれど、この曲を経験した辺りからト音記号の土地勘が付いてドヴォルザークが弾きやすく感じられるようになる。
交響詩『野鳩』も、蒲田で演奏会をするアマチュアオーケストラの末席で弾いたけど難しいんだよな・・・チェロパートは。 自然の王国のほんわか感世界とは正反対。暗くて暗くて・・・息苦しい。 第七交響曲の切迫感にも似るけれど、生命感に溢れる感覚ではなく
ここには薄ら暗い殺人の暗示がある。
いま聞いてみたいとは今思えないけれど、そのうち聞けるだろう。
ドヴォルザークは自分がその音楽を余裕を持って受け取る側に行けば行くほど嬉しくなってしまう要素に溢れている。 まだまだいろいろある。
これは三部作(自然、祝祭、愛)を通して描いたドヴォルザークの音楽的人間論。
その「自然」という人間が抗いがたい世界。それは田園風景ともちがう。
この曲は珍しくメロディはあまり多く詰め込まれてないけれど、どうにも印象深いものばかり。ドヴォルザークは色鮮やかな世界を作り上げられる19世紀最大のメロディーメーカー。ブラームスをはじめとして多くの作曲家が嫉妬したのだった。
きわめて平明な音楽だ。譜面もきわめて簡明だが、けっしてチェリストにとって容易であると言い切れない(笑)
今から何年か前に小金井市民オーケストラで演奏会曲目に取り上げられてまさに親しくなるまで弾いたのだけれど、やはりまだまだ落ち着いてその色合いを感じ取れるまでに至らなかったことが悔やまれる。
そう。「もう、聞き飽きた」と云う曲はしばらく寝かせてから聞きなおすことは大切だ。
これに続く『謝肉祭』もミューザ川崎が出来たときにアマチュアオーケストラの集団に混ぜてもらって弾いた。 これもアマチュア・チェロ奏者にはそれほど易しくない世界だけれど、この曲を経験した辺りからト音記号の土地勘が付いてドヴォルザークが弾きやすく感じられるようになる。
交響詩『野鳩』も、蒲田で演奏会をするアマチュアオーケストラの末席で弾いたけど難しいんだよな・・・チェロパートは。 自然の王国のほんわか感世界とは正反対。暗くて暗くて・・・息苦しい。 第七交響曲の切迫感にも似るけれど、生命感に溢れる感覚ではなく
ここには薄ら暗い殺人の暗示がある。
いま聞いてみたいとは今思えないけれど、そのうち聞けるだろう。
ドヴォルザークは自分がその音楽を余裕を持って受け取る側に行けば行くほど嬉しくなってしまう要素に溢れている。 まだまだいろいろある。
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